音の環境について考える。
16日目。
保育園における、音環境について言及した記事。
子どもたちが安定して過ごせる環境を整えるために熟読したい。
http://style.nikkei.com/article/DGXMZO04418720U6A700C1NZBP00
ごちゃまぜな社会を目指す
15日目。
ブログが、メモ化してきた、危険信号だ。
今回は、ごちゃまぜな暮らしについて。
2017.6.1の日経新聞夕刊に、社会福祉法人佛子園の、雄谷良成理事長の記事を発見。
福祉施設を作ろうとしたときのエピソードが印象的。
(以下、引用)
「障害者を施設に入れることはいいことだ。でも、うちの隣だと困る」
…中略…
総論賛成、各論反対なんです。障害者は地域の中で住みにくい、うまくやっていくことが難しい。そう思われているんです。
(以上)
これって、保育園にも当てはまることだったり、その他様々なマイノリティに対しても言えることではないだろうか。
性別、年齢、国籍、障害の有無を越えて、ごちゃまぜの中でこそ、人は居場所や役割や出番を見つけることができるのではないだろうか。
子どもだって、障害者だって、高齢者だって、施設のなかに閉じ込めることは、根本的な解決にはならない。むしろ社会の分断を進めることにも繋がる。極めて同質性の高いコミュニティに慣れ、居心地の良さを感じ、わずかな違いすら受け入れられない人を育てることにつながりやしないか?
とは、言え、今ある垣根を一気になくしていくことは現実的ではない。
自分にできることは何か?
それは、保育園という施設の内側から、その敷居を少し下げてみる努力をすることだ。
そして、同じく敷居を下げようとしてる地域の人や、施設の方と連携し、小さな交流を始めてみること。最初からうまくいかなくても、繰り返し、繰り返し、トライすること。
そんな地道な取り組みが、いずれ地域をごちゃまぜにしていく一歩に繋がることを願って。
先生から変えるニッポンの未来
14日目。
先生から変えるニッポンの未来と題したシンポジウムに参加。
主催は、ティーチャーズイニシアティブ。
主体的に学び続ける教師を支援するという枠組みに共感する内容だった。
書きたいことは色々あるけど、特に印象に残ったのは、パネリストとして登場した、映画『みんなの学校』で舞台になった、大空小学校の木村泰子先生の発言。
◎大空小学校では、毎日、職員室で雑談が繰り広げられている。それは、目の前の子どものこと。うまくいかなかったこと、対応で失敗したことを腹を割って話す仲間がいて、それをワイワイガヤガヤ対話する関係が学校内で構築されている。
また、こんなことも言っていた。
◎学校の主語を先生にしている限り、一人ぼっちになる。主語を子どもにしたら、チームが一つになる。
◎大空の子どもが教えてくれたことは、学びの本質は、目に見えない。
世界や社会の動きをウォッチしながら、こんな教育が必要だと振り回される先生を見て、子どもたちは学びってたのしいと思うか?
子どもになにかを教えるという役割から、子どもが育つ、子どもが学ぶという事実を、どのように教師が保障できるか。
◎子ども同士のトラブルを、いじめにするか、生きた学びに変えるか、それが教師の専門性。ジャッジをするのは簡単だが、子どもたちの想いを汲み、通訳をすることが必要。
◎教師に必要な資質は、周りの人を生かすチカラ。自分で対応が無理な問題が出て来たら、同僚や地域の人を頼ること。スーパーカリスマな教員になることは、自分のクラスが上手くいけばokという発想につながるが、子ども一人一人を真ん中にして、チーム学校として、向き合っていく姿が大切。
木村先生の話からは、
目が醒めるような問いかけを、いくつももらった。
また、一橋大学の米倉さんが言った
◎学校は、失敗をたくさん経験する場所 、安心して失敗できる場所
という視点は、基本的かつ、重要なポイントである。社会が減点主義に振り回される状況だからこそ、思い切って安心して失敗し、その経験から主体的に学ぶ経験を繰り返せる環境を作りたい。
これは、学校だけでなくとも、家庭でも、地域でも、共通する視点になる。
朝、人と会うというメリット
14日目。
今朝は、6時半から、
高いモチベーションを持ち続けている先生と対話。
今、自分の中で揉んでいる企画を相談した。
コンセプトとしては、「人生の学びのbar(場とかけている)」
保育園の一室を使って、夜7時〜9時、
地域の様々な大人が集まって、飲み食いしながら対話をすると言う企画だ。
今日の話で、会の目的が少し形になってきた。
①他人の人生を追体験する、自分の知識・経験を再構築(=意味付け)する場。
それも、単なる成功哲学、サクセスストーリーだけではなく、そこにどんな葛藤・困難があって、選択をして、結果どうなったか。(もしくは、どう進行しているか)
「今」という点で捉えるのではなく、人生の浮き沈みを味わうことで、それが励みになったり、明日への原動力につながったりと。
とても人間臭い感じの場だ。
②地域の多様性(=ごちゃまぜ)を肌で感じる場。
保育園という「子どもたちの学びの場」において、大人同士が互いから学ぶ。
それなり人生を生きていれば、持っている背景・価値観もきっとバラバラで、そんな人たちが集まったときに、どんな化学反応が起きるのか
世代や職種や性別も関係なく、むしろ「違いを楽しむ」「モヤモヤを味わう」といったことを場の中で大切にしたい。
望むところは、こうした開かれた場に、教育に携わる人が多く参加してもらいたい。
(とはいえ、教師ばかりではオモシロくないので、バランスをとりつつ)
多様性を認めましょう、「みんな違って、みんないい」と言いながらも、実は、教育現場の人間が、実は一番閉鎖的な場所にいるのではないだろうか?
教育とは、「人づくり」で「社会をつくる仕事」であり、子どもたちの持つ、大いなる可能性や有能性を信じ続けるためには、こうした場を通じて、今までの価値観・思い込みの枠組みを壊し続ける必要がある。
③子どもを豊かに、地域を豊かにする場。
保育園で、これをやる意味。
それは、保育園や学校が、今度、社会に開かれた学びの拠点になるという挑戦である。
子どもだけでなく、大人だって、学び続ける事で、暮らす地域が豊かになり、
暮らす地域が豊かになれば、子どもたちにとっての環境も回り回って豊かになる。
そんな循環を生み出す場を作りたい。
勢いで書いたので、多少分かりづらい部分もあるが、こうした目的を整理して、場を作って行きたい。
朝からこんな暑苦しい話に付き合ってくれるFさんに感謝!!!
今日も一日モチベーション高く仕事に向かいます!!!
学びのサードプレイス
13日目。
思いついた時には、連続で書く。
今回は、学びの場作りについて。
やりたいことがある、
それは【学びを、ほぐす場】をつくることである。
これまで、学ぶということは、何か新たな知識を獲得することだと思っていた。
しかし、今の仕事を始めてから、多様な価値観を持つ人たちと出会い、話すうちに、この考え方が変化してきた。
それは、自分の見ている狭い世界に囚われることなく、自分の持っている価値観の偏りを自覚し、思い込みの枠を外していくことの大切さである。
そして、これこそが、学ぶことではないのかと。
少し言い換えると、他者との対話を通して、
今まで自分が得た知識や経験と、そこから形成されている価値観を一旦全てときほぐし、
知識や経験に新たな意味づけを行いなおすことで、これまでの思考の枠組みを外していくこと。
この変化こそが、学びなのではないか?
という仮説である。
今までの学びをほぐし、再構築する場。
単に知識やノウハウを提供するのではなく、
集まった個人が、自らを一人称で語りながら、経験や知識をストーリー的に語ることで、
他者との違いを感じ、愉しむ。
こんな場を作って行きたい。
※サードプレイスとは、レイオルデンバーグが提唱した概念。第1の場所としての家、第2の場所としての職場、そしてイギリスのパブ、フランスのカフェのようにリラックスした雰囲気の中で対話を行う場を示す。
サードプレイスの特徴は、【インフォーマルで、ハプリックな営み】を促進する場とされる。
つまり、他者に強制されず、個人の自由意志に基づいて行動していること。一人で行われるのではなく、他者との関わりの中で行われる活動のこと。
オープンなコミュニケーションとは
12日目。
GW真っ盛り。
再び、コミュニケーションについて考えてみる。
参考書は、おなじく、
【ダイアローグ 対話する組織】
◎効率的なコミュニケーション
◎緊密なコミュニケーション
◎オープンなコミュニケーション
この違いは何だろうか?
知識をどのように捉えているか、価値観を同一化すべきかどうかで整理できる。
まず、効率的なコミュニケーションとは、
知識を伝達可能なものとみなし、一方向に効率的に伝えること。
緊密なコミュニケーションとは、
かつての家族的な結びつきをもった企業が、組織に隷属する形で、全社一丸となって行動すること。
オープンなコミュニケーションとは、
両者と異なり、単なる情報の伝達ではなく相互理解を重んじ、かつ、組織の結束力よりも個人の主体性の発揮を重んじること。
具体的には、
●真剣な話し合いでも、相手を打ち負かす敵対的なムードではなく、友好ムードを保つ
●意見や考え方に優劣はなく、一つ一つの意見や考えかたにユニークさを見出し、尊重する
●意見の相違から目はそらさず、お互いの違いを浮き彫りにし、受け入れる
●一般的に、、、という三人称の見解ではなく、私を前面に出した一人称的な視座から、経験や思いを語る
そして、これらは全て対話を行うキーポイントでもある。
すなわち、組織において対話=オープンなコミュニケーションがとれてる状態とは、
自律した個人と個人の関係を保ちつつ、同時に、深い相互理解を生み出していくことである。
これは、組織を離れた学びの場でも応用可能なことばかり。
働く大人が集まる場づくり行なっている自分にとって、とても良いヒントになると感じた!
問題解決から問題設定へ
11日目。
長らく空いてしまった。。。
継続こそ力なり、の中で、内容の質より継続することを優先することが出来なかった。
今後の対応
◆書くことをルーティン化する、時間帯を決める。
→仕事に向かう電車が30分あるので、そこの間で書くことにする
さて、本題。
今回も以下の本から学んだことの続き。
ダイアローグ 対話する組織 https://www.amazon.co.jp/dp/4478005672/ref=cm_sw_r_cp_api_CCP.yb8SNG4BW
●組織において、対話はどのような意味を持つか?
それについては、以下の三点が考えられる。
①強調的な問題解決が可能になる
②知識の共有が進む
③組織の変革に繋がる
議論型の話し合いと、対話型の話し合いは補完関係にあり、まずは、問題解決というプロセスに入る前に、適切な問題設定を行う必要がある。
この問題を定式化する、すなわち何が問題かを合意していく段階において、対話が重要視すれる。
また、経営学者の妹尾堅一郎氏によれば、問題解決症候群という思い込みに駆られている人は、そもそも設定された問題や選択肢は適切なのかという検討が行われない、と指摘する。
◆問題解決症候群
①問題は与えられるものである、と思い込んでいる
②与えられた問題には必ず唯一の正解がある、と思い込んでいる
③何が正解かは誰かが知ってるし、場合によっては教えてくれる、と思い込んでいる
つまり、議論型の話し合いは、唯一の正解について合意を図るプロセス
対して、対話型の話し合いは、多様なメンバーによる現在の状況における問題設定を共同で意味付けるプロセス
ということになる。
ふぅ。朝の時間では、これくらいが限界。
続きは次回へ。
知識の共有は本当に行われているのか?