アンラーンについて 〜ラーナビリティが高い個人になるために〜
今日は、こちらの本を読んでみて。
ここ最近、「学びの場」を作る機会が増えていることから手に取った本。
直感的に、「学びの場」においては、内容が重要なことはもちろん、
その学びを最大限に引き出す為の場づくり(空間、時間Design)も重要だと思う。
簡単に言うと、わくわくする場をつくることだ。
そして、私に期待される役割は、内容よりも、むしろ場に誰を招いて、どんな時間を過ごしてもらって、どんな学びを持って帰ってもらうかを考えることであることが多い。
そんな実務のエキスパートになっていくためには、うってつけの本だった。
以下、概要と所感を示す。
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[概要]
・ラーニング・バーとは、大人の為の学びの場。働く大人と、組織と、学習・成長という三つの領域に関心のある人々が、それらにまつわる最先端のテーマをもとにディスカッションを行う。著者の中原淳さんは大学の講師をしながら、ラーニングプロデューサーとして、場づくりを行っている。
◎参加者に対して提供するものは、単なる<イベント>ではなく、<ラーニングエクスペリエンス(学習経験>を提供している。
◎ラーニング・バーのコンセプトは、
①聞く ②聞く ③聞く ④帰る ではなく、(一般の講演会)
①聞く ②考える ③対話する ④気付く (+⑤Barを出て語る ⑥自分もBarを作る)
◎対話のルールは、以下の4つ。
①私を主語にして語る。(私は、こう思う。私は、こう感じる)
②経験談や主観を歓迎する。(私の日常は、他人の驚き)
③人はそれぞれ違って当たり前。
④対話の中では、あえて判断を保留する。大事なことは、違いの背景にあるアサンプション(前提)に気付くこと。
◎なぜ、大人は、社外での学びの場が必要か。
・社内でも様々な学習の機会を得ることが出来るはず。それは、研修・仕事経験・人間関係、組織で働きながら「仕事の型」を獲得して、業務を回せるようになるかもしれない。
・しかし、組織に染まった人は、組織の価値観に対して揺るぎのない確信を抱く一方で、それとは違うものを知らず知らずのうちに排除したり忌避したりするようになる。
・すなわち、「仕事の型を獲得」=「変化を嫌う頑迷な個人を作った」ことと同義である場合が多い。企業の特殊な価値観や知識・技術に対する「文化的無自覚性』を既に獲得してしまっている。
◎では、どんな環境に身を置いたら良いか。
・過去に学んだことや身につけた「仕事の型」を問い直し、獲得してしまったステレオタイプを「捨てる」ことが求められる。これをアンラーンという。
・業務経験をコアにしつつも、ある経験値をアンラーンし、学習し直すことができる個人「ラーナビリティ(学習可能性)」が高い個人=「変化可能性が高い個人」が求められている。
・次のような環境における対話がその答えの1つになる
①心理的安全が確保されている場
②多様な参加者が確保されている場
③答えを押し付けられず、物事の意味や形を自らつくり出すことが求められる
④ゴールとアジェンダのある会議といった定型化されたコミュニケーションスタイルから自由になれる場
⑤時間的余裕が確保され、そのあいだに熟慮することが求められる場
⑥それゆえ、必ずしも予想できることだけが起こるわけではない場
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引き続き、「学びをほぐす」機会を充実させる為に自分自身、学んでいきたいと思います。
長くなりそうなので、続きは、別の記事で。
教育(保育)実践は、Doing & Talking で成り立つ。(白梅大学・無藤先生)
教育(保育)実践は、Doing & Talking で成り立つ。
保育や授業は実践自体とともに、それについて言葉で表現し、語り合うことから成り立つ。そのことが専門性を高めていく。不立文字ではない。自己とまた同僚と絶えず対話していくのであり、実践の身体知であると同時に、言葉に大きくよっている。
この20年、実践の身体性、環境性、暗黙性の認識とそこに関わる言葉の重要性の双方の追究が広がった。学習指導要領でも幼稚園教育要領でも保育所保育指針でも、少しずつ明記されるようになった。
ただ、保育士の場合、語り合い振り返る言葉の意義と、保育所実践における時間的保障が弱い。今の改善の大きな目標だと思う。
「なに」から始めない。「なぜ」から始める。〜ゴールデンサークル〜
今日は、隔週開催の朝活。
テーマは、学び✖️地域で、少人数でひっそり行なっている。
毎回、同じ動画を見て感じたこと気づいたことを素直に言葉にする。
今回は、こちらのサイモンシネックさんの動画が題材になった。
以下、学びを。
〇人は、WHAT(何をやるか、何を売るか等)で動かされるのではなく、
WHY(なぜそれをやるのか、なぜそれを売るのか等)に共感し、動かされる。
〇WHY(なぜ)が中心にあり、HOW(どうやって)が外側にあり、WHAT(なに)をは1番外側にある。これは、動画の具体例で登場する、アップルや、ライト兄弟や、キング牧師は、この、「なぜ」からメッセージをスタートしているから人を動かす。だからこそ、人々は共感し購入したり、飛行機を作れたり、国民的なムーブメントを起こす。
〇これは、心理学ではなく、「生物学」だと言っていた。脳の作りがそう設計されていることで、あらかじめ備わってるものだから。
◯あらゆる分野に当てはまることだと思う。マーケティング、マネジメント、特に組織を作る上でも、この、「なぜ」に共感する仲間の存在は大きいと感じた。
〇まさに、この朝活においても、わざわざ6時半に、なぜ人が集まるのか。やりたいから、アウトプットできるから、地域という学び場を得るから、斜めの関係を得るから、様々な意見はあるし、それを一人ひとりが感じているからだろう。
〇特に、日常のエピソードを、こうした動画を見てフレームワークにはめてみることで、「抽象度が上げる」ということが、しばらく大事にしたいキーワード。人に伝える、伝わるためには、抽象度を思い切り上げて俯瞰し、具体例に落とし込んでいく。
◯スピーチの内容自体も素晴らしかったが、スピーチで取り入れられていた、「伝えたいメッセージが明確で、繰り返される」「具体例が、ポジティヴ/ネガティブどちらも豊富に盛り込まれている」ことで、とても分かりやすかったなぁ。
思わずメモをしたくなったので、ブログに綴りたくなった朝。
ふたせん、ありがとう!
幼少期に必要な「学び」とは何か?
今日は、こちらの学校が主催のシンポジウムに参加。
普段からお世話になっている先生が基調講演ということもあって。
気づきをたくさん得たので、備忘録として書いておく。
タイトル『幼少期に必要な「学び」とは何か』
◎「学び」とは、辞書的な意味を覚えるだけでなく、体験を通じてその語義を一人称化して「意味」を体得していくこと。語義が表す内容についての「体験」が必要で、それによって語義に「感情」や「価値判断」をまぶして意味にしていくことが大切。(汐見稔幸氏)
学びにおける体験の重要性 = 遊びの重要性
…人やものとの関わりを通して、子どもは対象に内包される法則性や、生命や自然に対する畏敬の念といった抽象的で高度な概念とかかわり、それらを獲得して行くことになり、さらには、様々な事物や現象を捉え、それらに対する認識を深めて行くようになる。
◎見守る(MIMAMORU)ことは、日本の保育において傑出している。
プロの保育者として、どこまで子どものことを信じて、単に「見る」だけでなく「見守る」ことができているのか。そこには、子どものことを信じる気持ち、子どもの遊びが発展するような環境設定、どんな体験を得ているかと言う意味付けできるスキルが必要となる。
◎幼少期に必要な学びから、遊びを捉える。
・学びとは、自分の中に変革・変化が起こること
・他者と協働しながら社会を変えて行く力
・特に「答え」のない問題に協働で立ち向かい、「正解」ではなく、その都度「最適解」を求め続ける力
◎他者(身近な大人、友だち)との関わりの中で人は育っていく。
つまり、身近な大人は、どこまで「主体的、対話的で深い学び」をしているか。その姿勢そのものが重要である。「消極的、一方的で浅い学び」の大人の周りで育つ子どもは、世界の捉え方が同じになってしまう。
◎幼保小の接続においては、学びの主人公である子どもたちを、横串で見ていくことが必要。獲得していく力は同じなのだから、その目線をきっちり擦り合せながら、どのような経験と知識を結びつけていくか。立場の違いによって手法はことなるが、その一つひとつが有機的に結びついていくことが重要。
・互いの教育を理解し、見通すことが必要。
それぞれの発達の違いを踏まえて教育を充実させることが重要であり、一方が他方に合わせるものではないことに留意。
・教育活動を繋がりで捉える工夫を示す。
「人とのかかわり」「ものとのかかわり」という直接的・具体的な対象とのかかわりで幼児期と児童期の教育のつながりを見通して、円滑な接続を図ることが必要。
幼児期の教育と小学校教育の円滑な接続の在り方に関する調査研究協力者会議報告書について:文部科学省
◎短い時間にそつなくこなすことが評価されるようになると、空気が淀む。
時間を、未来の価値観にかけること(ブレークスルーや、イノベーションが生まれる源)
将来に向かって、努力したい気持ちがある。
「あきらめない」というのが人間。
(以上、霊長類学者・山極さんの言葉)
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幼児期からの教育改革、こんな言葉をちらほら耳にするようになった。
もっと自分の口で、自分の行動で、表現できるよう昇華していきます。
音の環境について考える。
16日目。
保育園における、音環境について言及した記事。
子どもたちが安定して過ごせる環境を整えるために熟読したい。
http://style.nikkei.com/article/DGXMZO04418720U6A700C1NZBP00
ごちゃまぜな社会を目指す
15日目。
ブログが、メモ化してきた、危険信号だ。
今回は、ごちゃまぜな暮らしについて。
2017.6.1の日経新聞夕刊に、社会福祉法人佛子園の、雄谷良成理事長の記事を発見。
福祉施設を作ろうとしたときのエピソードが印象的。
(以下、引用)
「障害者を施設に入れることはいいことだ。でも、うちの隣だと困る」
…中略…
総論賛成、各論反対なんです。障害者は地域の中で住みにくい、うまくやっていくことが難しい。そう思われているんです。
(以上)
これって、保育園にも当てはまることだったり、その他様々なマイノリティに対しても言えることではないだろうか。
性別、年齢、国籍、障害の有無を越えて、ごちゃまぜの中でこそ、人は居場所や役割や出番を見つけることができるのではないだろうか。
子どもだって、障害者だって、高齢者だって、施設のなかに閉じ込めることは、根本的な解決にはならない。むしろ社会の分断を進めることにも繋がる。極めて同質性の高いコミュニティに慣れ、居心地の良さを感じ、わずかな違いすら受け入れられない人を育てることにつながりやしないか?
とは、言え、今ある垣根を一気になくしていくことは現実的ではない。
自分にできることは何か?
それは、保育園という施設の内側から、その敷居を少し下げてみる努力をすることだ。
そして、同じく敷居を下げようとしてる地域の人や、施設の方と連携し、小さな交流を始めてみること。最初からうまくいかなくても、繰り返し、繰り返し、トライすること。
そんな地道な取り組みが、いずれ地域をごちゃまぜにしていく一歩に繋がることを願って。
先生から変えるニッポンの未来
14日目。
先生から変えるニッポンの未来と題したシンポジウムに参加。
主催は、ティーチャーズイニシアティブ。
主体的に学び続ける教師を支援するという枠組みに共感する内容だった。
書きたいことは色々あるけど、特に印象に残ったのは、パネリストとして登場した、映画『みんなの学校』で舞台になった、大空小学校の木村泰子先生の発言。
◎大空小学校では、毎日、職員室で雑談が繰り広げられている。それは、目の前の子どものこと。うまくいかなかったこと、対応で失敗したことを腹を割って話す仲間がいて、それをワイワイガヤガヤ対話する関係が学校内で構築されている。
また、こんなことも言っていた。
◎学校の主語を先生にしている限り、一人ぼっちになる。主語を子どもにしたら、チームが一つになる。
◎大空の子どもが教えてくれたことは、学びの本質は、目に見えない。
世界や社会の動きをウォッチしながら、こんな教育が必要だと振り回される先生を見て、子どもたちは学びってたのしいと思うか?
子どもになにかを教えるという役割から、子どもが育つ、子どもが学ぶという事実を、どのように教師が保障できるか。
◎子ども同士のトラブルを、いじめにするか、生きた学びに変えるか、それが教師の専門性。ジャッジをするのは簡単だが、子どもたちの想いを汲み、通訳をすることが必要。
◎教師に必要な資質は、周りの人を生かすチカラ。自分で対応が無理な問題が出て来たら、同僚や地域の人を頼ること。スーパーカリスマな教員になることは、自分のクラスが上手くいけばokという発想につながるが、子ども一人一人を真ん中にして、チーム学校として、向き合っていく姿が大切。
木村先生の話からは、
目が醒めるような問いかけを、いくつももらった。
また、一橋大学の米倉さんが言った
◎学校は、失敗をたくさん経験する場所 、安心して失敗できる場所
という視点は、基本的かつ、重要なポイントである。社会が減点主義に振り回される状況だからこそ、思い切って安心して失敗し、その経験から主体的に学ぶ経験を繰り返せる環境を作りたい。
これは、学校だけでなくとも、家庭でも、地域でも、共通する視点になる。