日本がレッジョエミリアから学ぶことは何か 〜市民を育てる、とは〜
今日は、東京大大学との協定を記念してのシンポジウム。
ゲストには、イタリアのレッジョエミリア市から、現在ドキュメンテーションセンター長として敏腕をふるっている、マリーナカスタネッティ氏が来日。
さて、幼児教育の分野ではすっかり有名になった「レッジョ・エミリア」だが、そもそもどんな点で注目されているのか?
…1991年のアメリカ「Newsweek」誌に「世界で最も優れた乳幼児境域が行われている学校」としてレッジョ市のディアーナ幼児学校が紹介されたことが一つのきっかけとなり、先進的な乳幼児教育として世界的な注目を受けるようになった。
最近は、ネットメディアにもちょくちょく登場している。
ただし、断片的にレッジョのアプローチを切り取ったりすることはあっても、その教育哲学にどこまで本質的に踏み込んでいるかといった点については、今回のシンポジウムが非常に分かりやすかった。
●レッジョの教育哲学
今回は、レッジョの歴史的な経緯から、紐解いて行くことになったが、特に面白かったのは、レッジョの教育哲学に通底している、以下のキーワード。
・こどもの権利
…子どもを未成熟な存在としてでなく、可能性・有能性に満ちた存在であること。既に市民として尊重される、社会の中の主人公として、政治的な存在であること。
・シティズンシップ
…市民参加で学校やまちづくりを進めていくこと。後で詳しく。
・デモクラシー
…答えのない問いにどう向き合うか。それこそ教育の本質であり、何か正解のあるものを教師が教えていくことではない。
これ、なかなか幼児教育のシンポジウムに参加して出てくる言葉じゃない。
保育や教育のハウツーではなく、レッジョが、コミュニティとして何を重要視して保育・教育しているかということがよく分かる。
・レッジョエミリア教育の礎を築いた人物として、ローリス・マラッグツィ氏がいるが、その人の言葉にも象徴的に現れている。
「幼児学校は、子どもたちが市民として認められるための場所である」
つまり社会の中で、子どもたちは主人公であり、同時に政治的な主体である。
これは歴史的な背景にも起因する。
かつてレッジョを含むイタリアの都市は世界大戦中に、ファシズムの勢力に支配されていた。
敗戦国となり、この街をどのように再建していくか、ちょうど同時期に「女性の参政権」が認められたこともあり、こどもの存在・権利に光が当てられた。
まさに、その頃は、市民が自らの手で瓦礫をかき分け、レンガを積み上げて学校を作ったり、市民参加で学校が作られていったと言える。
だからこそ、レッジョエミリアの特徴の一つが、
「参加」=participant という概念だとカスタネッティ氏も述べていた。
子ども、保護者、スタッフ(教師だけでなく給食や用務員などすべて含む)、地域住民など、コミュニティの成員が、学校という場を通じて、人づくり・まちづくりに参加していくきっかけを得ることができる。
●教師の役割
・子ども観(Image of the Child)の豊かさ
子どもの権利でもある、存在自体の価値、可能性・有能性について、どう捉えられるか。また、その能力が最大限に引き出せるための環境をどのように設定できるか。
・言葉、ビジュアルで学びを伝え、振り返ること
子どもとはどんな存在か、そして今学びを得ているかということを言葉だけでなくビジュアルでも伝えてく、社会に発信してく。
これによって、教師同士での振り返りや、子どもたちの活動の振り返り、そして親を巻き込む対話のきっかけ、地域社会へ子どもの存在を知らしめるツールになる。
話はかなり深い方向に及んだが、最後に残された言葉が印象的だったので、それで締めくくる。
・「すべて問題である」と捉えない。「新しい戦略を立てるチャンス」と捉える。
つまりは、教師の子どもの見方、親の見方、社会の見方が教育の質を左右するということ。これは、ついつい型に当てはめてみてしまう、そんな性質を持ってしまうことに対する警鐘なのかもしれない。
続きがもう少しあるけれど、それはまた後日